千利休がまとめた「利休道歌」に守破離(しゅはり)という言葉があります。
最近世間でもたびたび耳にするようになりました。
茶道や武道などの芸道・芸術における師弟関係のあり方の一つであり、それらの修業における過程を示したものと言われています。
「守」とは、師から教わった型を徹底的に守り習得すること。
「破」とは、鍛錬することにより、自分に合った型を見出し、既存の型を破ること。
「離」とは、自分の独自の流派を発展させ、師から離れて独立すること。
守破離は、芸道や芸術だけでなく、すべての仕事やスポーツなどにも当てはまるのではないでしょうか。
適切ではないかもしれませんが、野球に例えると、
「守」は、コーチの指導の下、球拾い、キャッチボール、走り込み、守備練習など徹底した基礎練習をし土台を作ること。
「破」は、自分の力が最大限に発揮できる投球フォーム、打撃フォームや選球眼などの習得により個性的なプレーヤーとして活躍すること。
「離」は、その個性を持って、プロ野球やメジャーリーグで活躍し、後進を育てていくこと
のように思います。
私も含め、ほとんどの人は「離」ばかりをすぐに求めてしまいますよね。
自分の思った仕事とは違うと言って転職を繰り返す若者が多いと聞きます。しかし何回転職しても必ず「守」から始めなければなりません。すぐに「離」には行けるわけはないですよね。
野球部を辞めてバスケットボール部に行っても、結局、球拾いから始めるわけで、いきなりスター選手にはなれません。一回は「守」をやりきらないといけないわけです。
それではお前はどうかと言われれば、恥ずかしながら、私は何も「離」には達していません。形だけは独立開業し「離」に達したように見えますが、獣医学的には何も並外れたものは持っておりません。
専門医はともかく、私のような浅く広く診療をするような町獣医、つまり「守」と「破」ばかり繰り返している獣医師が果たして「離」に達することができるのか?。さらには、獣医師にとって「離」とは何か、「離」に達する必要性があるのか?
有名な専門医になれる獣医師は一握りでしょう。ほとんどの獣医師は「守」と「破」ばかり繰り返していると思います。なぜなら、毎日、生命という摩訶不思議な存在に対峙し、神ではない凡人が、その生命現象の変化に悪戦苦闘しているわけですから。
これは獣医師だけに限ったことではないかもしれませんね。
こう考えると、「離」に達するのはごく一部の人や分野に限られる可能性があると考えられます。
ですから、「守」と「破」をくりかえしていて当然であり、「離」に達しなくても、生きて働く意味や喜びが十分にあるのではないでしょうか?
理想を追い続けることは大切なことですが、常に自分の足元を確認し、しっかりした土台の上に立って、おごりなく目の前のことを淡々とこなしていくことが大切だと感じさせられた言葉でした。